■ 伊藤光湖現状報告 (2017年7月17日) ■


(ある方にお送りしたメールの原稿より)

おはようございます、伊藤です。
皆様に大変なご心配とご迷惑をおかけ致しております。
ここで一度「発信元」の〇〇さんに、2017年7月17日現在の、
伊藤光湖の現状報告を致します。

まずは入院当日、重度の一酸化炭素中毒と、重症の気道熱傷、
目、鼻、喉、気管、肺の火傷の中で特にひどかったのが喉の火傷で、
病院に到着した時には喉が腫れ上がり窒息状態でしたので、
直ちに麻酔で眠らせられ、全身にチューブを入れられ、ベッドに
両手を縛り付けられた状態で目を覚ましました。

鼻、喉、気管、肺が赤く焼けただれた上に、肺の奥まで
真っ黒に煤がついている、という状態でした。

最初の約5日間を過ごしたのは札幌医科大学附属病院、高度救命救急センターの
ICUでした。後で看護師さんから、あまりにも苦しそうで、見ていて
つらかったと言われました。ここでは麻酔なしで肺にカメラを入れる、腸が
全く動かないところに浣腸であまりの激痛に全身の痙攣が約2時間
続いたなど、様々な想像を絶する苦しみを味わいましたが、
これもまた生き残りました。

その後病院側の事情とやらで1日中央ICUに移動されました。
ここではこれまでの人生最大の拷問であった、「焼けただれた
気管に気道確保のために入れられていた、直径約1センチ、
長さ約22センチのチューブを、麻酔無しで引き抜く」
という荒業を行いました。徐々に抜けていくチューブが
血まみれなのを見ながら、あまりの痛みと苦しみと呼吸困難
にも関わらず、何故か肺のカメラの時と同様に、気絶
しませんでした。

そこでむせまくって3回ほど窒息死しそうになりながらも
朝まで生き残り(眠ったら窒息死するので眠らずに朝まで待ちました)、
次の朝、再び救命救急センターの病棟に移動されました。

こちら、救命救急病棟第32号室に移されてから私がどれ程苦しみ抜いたかを、
看護師さんや医師の方たちしかご存じないので、書いておこうと思います。

当然、中央のICUに居たときの延長で、とにかくむせかえってしまい、
咳き込んでは窒息する、をひたすら繰り返しました。そのため、もともと
最もダメージが大きかった喉に過大なる負担がかかり、喉が真っ赤で
激しい痛みを伴いました。そこへ容赦なく気管から痰のからんだ咳が
込み上げてくる、という状態が数日間続きました。したがって夜は
15分に一度は咳が出て痰を出さねばならないため、ほとんど全く
眠れませんでした。

ここでは恐らく一酸化炭素中毒の後遺症と思われる、吐き気と
不随意運動(こちらの意思とは関係のない身体の動きなど)
で、不思議な体験を致しました。今でも少しだけその妙な
しびれや訳のわからない動きの感覚があります。

第32号室に移った日、初めて立ってみることになりましたが、
なんと私は全く立つことが出来ませんでした。これはもちろん急激な
筋力、体力の低下が原因ですが、私の場合はさらに重度の一酸化炭素中毒
による脳の機能障害のためだと思われます。それでも歩けない人用の
歩行補助の道具を使って、何とか立ち上がり、歩いてみました。
ところがなんと私は最初、全く歩くことが出来ませんでした!
驚きと衝撃と共に何とか脚を動かすうちに、急速に感覚が戻ってきて、
その後は驚異的なスピードで運動能力の方は回復して行きました。

目の角膜に傷がある状態(眼球の火傷でもあります)で入院しましたが、
こちらも驚異的な回復で、約1週間後には角膜は綺麗になっており、以前の
ようには見えませんが失明はしませんでした。

声帯をこじ開けて通っていた気道確保のチューブを抜いて約2日目あたり
から、微かに声を出せるようになりました。その後こちらも驚異的な
回復を遂げ、日に日に自分の声を取り戻して行きました。

点滴、鼻、尿などのチューブが全て外され、看護師監視のもと
自分でトイレに行けるようになり、看護師監視のもと自分でシャワーも
浴びられるようになり(人生初の「監視つきシャワー」でした!)、
食事も後片付けも自分で出来るようになりました。ここまでの
回復が異常にはやく、あっという間に「看護なしで生きられる人間」に
なりました。ただ、激しい咳と痰と喉の不具合は続いておりました。

このシャワーの日から、手や顔の皮が剥がれ落ち始めました。
日に焼けた人の皮膚がぼろぼろになるような感じで、まるで手全体に
木工用ボンドを厚く塗ってから乾かしたものを剥がすように、かなりの厚さの
皮膚が、ぼろぼろと剥がれ落ちていきましたが、その脱皮が終わると
綺麗な手に戻りました。

右の耳にもかなり重症の火傷を負って、耳が部分的に変色してこんがり
焼き上がっていたので、てっきりそこからとれるのかと思っておりましたが、
こちらも驚異的な回復を遂げ、なんと全く元通りの耳の形に戻りました。

そんな中、ある日体重計に乗ってみたところ、恐らく入院当時
54キロ近くあったはずの体重が、50.7キロに落ちてしまったことを
発見しました。そのことは病院に伝えましたが、その2日後に再び体重を
計ると、知り合いが差し入れて下さったものを追加でかなり食べたにもかかわらず
50.5キロに落ちてしまっておりました。病院の食事を完食しているにもかかわらず
1日に0.1キロずつ体重(すなわち筋肉)が落ちていくことに危機を感じ、
一刻も早く退院しなくてはいけないと思いました。

医師からも「病室が混んできちゃって」と言われておりましたし、
その病室は救命救急センターの病室であり、私のような何の看護も
必要なくなった人間が居るべきところではない、場所を譲らねば、
との考えから、無謀を承知で退院希望を出しました。
その後、病院にとても近いところにある、〇〇様のお友達の
お宅にお邪魔して、現在に到っております。

もともと最もダメージが大きかった喉にチューブで声帯をこじ開けて
いた喉を酷使して無理やりしゃべったせいで、声がすっかり枯れてしまいました。
(医師からは、肺炎の影のある肺や、気管の傷などは、時間と共に
回復して行くであろう、ただし声が元に戻るには、相当時間がかかるであろう
と言われております。)

退院してからは普段の倍ほどを無理やり食べて、落ちてしまった
体重の回復に努めておりますが、胃腸に相当な負担がかかってはいるものの、
吐いたりせずに順調に回復してきております。今朝は51.7キロまで
回復することが出来ました。

ここ数日の過酷な暑さでやや熱中症ぎみだったのかと思いますが、
もしかすると一酸化炭素中毒の後遺症が出ているのかもしれません。
これは「間欠型(遅発性神経症状)」と言うそうで、私は医師から
次に病院に担ぎ込まれた場合、もしくは自分で病院に行く時のために、
この一酸化炭素中毒に関する医師の手紙を持たされております。

基本的に何一つ不自由なく、元気にしているつもりでおりますが、
微妙な喉への刺激から誘発される咳と痰は、まだしばらく続きそうです。
従って、現在の最大の身体的苦痛は、「しゃべること」です。

もちろん、数週間に亘ってほとんど寝ていないのと、一酸化炭素中毒の
関係ですぐ酸欠になり、非常に簡単に息が上がってしまうこと、など
いろいろとございますが、基本的に身体はちゃんと動いております。

「パソコン入手」という情報が巷に流れてしまっておりますが、正確には
私がこれまでに一度も手にしたことのない「タブレット」という機械です。
(知り合いが貸して下さっているものです。)
スマフォも使ったことのない私にとってはすべてが全く新しく、実はメールを
お送りするのにもPCの何倍もの時間と労力を必要としております。

それで、当面早急に行わなければならない手続きに関するメール
以外への対応(いろいろなところからメールが届きはじめてしまっております)
にはとても手が回らない、という状況です。

以上、おおまかな伊藤光湖の現状報告です。

伊藤光湖


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