■ 実家解体などの最終報告(2018年5月23日) ■


2017年6月30日未明に札幌の実家が原因不明の「マッサージチェアからの自動発火」により全焼するという事件があってから、はやくも約11ヶ月が経過しました。私の時間はあの火災以来まだ止まったままですが、昨年末に雪で中断されていた家の解体作業が春になって再開し、残っていた家の土台の部分の撤去も完了、2018年5月23日に、遂に更地となりました。

大きな重機による作業が出来ない高いところに建っている家だったこと、火災で酷く全焼、かつ解体作業の途中で雪が降るという大変な悪条件が重なったにも関わらず、鮮やかに作業を完了して下さいました解体業者の皆様、本当にお世話になり、ありがとうございました。

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2018年3月5日元・玄関側から元・側面から
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4月13日雪溶け後家の土台部分
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5月21日最終日5月23日土台部分撤去後
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全て跡形もなくなり土が綺麗にならされて解体工事完了


火災だけでなく解体でも家の周りの皆様にはいろいろとご迷惑をおかけしたことと存じます。また、解体業者様が大変お忙しく、雪解け後の解体再開までにすっかり時間がかかってしまい、ご迷惑をおかけしたこともお詫び申し上げます。いろいろと本当に申し訳ございませんでした。これまで約30年間、伊藤家一同大変お世話になりました。どうもありがとうございました。


□ 手続きなど

私が無謀を承知で退院したのが2017年7月半ば、それ以来ずっと続けてきた諸々の手続きですが、家に関する分、父の分と母の分(と祖母の分!)など、ありとあらゆる種類の、本当に驚くほどの量で、極めて膨大な時間がかかりました。

実は火災後、体調の関係などもありまだ一度もフランスに戻れておりませんが、長年のフランスでの生活もあり、日本だけでなくフランスの分も手続きをしなければなりませんでした。時にはそのためにアメリカに電話をしながらの手続きが必要だったことなどもありましたが、なんとかそれらもこなすことが出来て、火災の後片付けという意味においては、当面行わなければならない手続きは一応落ち着いております。

もちろんまだ全てが終わった訳ではありませんし、生活再建もこれからですので、引き続き一歩一歩前に進んで行けるよう努めたいと思っております。


□ まとめ

今考えれば、2017年6月30日火災現場から救急車で「短時間内に生命の危機が生じている最重症(3次)救急患者」として高度救命救急センターのICU(集中治療部)に運ばれ、鼻・喉をはじめ気管・肺の奥まで真っ赤に焼けただれた上に肺の一番下まで真っ黒に煤がついているような状態で、約1週間後に集中治療室を出てからなんとか立ち上がろうとした時はベッドから全然立ち上がれず、身体を抱え上げて立たせてもらっても、平衡感覚が全く働かず数秒たりとも立っていることが出来なかった程、重度の一酸化炭素中毒で脳にダメージを受けた私が、その後一歩も歩けなかったところを歩けるようになり、日常生活動作が可能になり、膨大な量のありとあらゆる手続きや、火災で同時に亡くなった両親の火葬・合同メモリアルや納骨、父が保管していた祖母(父の母)の遺骨の納骨(全く別の場所へ)、そして全焼した実家の解体(そのための膨大な準備も含めて)などが可能になった理由は恐らく、「責任感」(唯一残された者として今後の手続き・後片付けなどを全て一人で行わなければならないという責任)によるところが非常に大きかったような気が致します。

もう一つは入院当初から、私は自分が「生きるか死ぬか」の重傷だったという自覚が全くなく、(だいたい自分の入院先が「高度救命救急センターの集中治療室」だったことを知ったのは、退院近くなってからでした)、また私があれだけ重傷だったにも関わらず、お見舞いに来て下さった方が病院の方から聞いたという、「あ、この人(=伊藤光湖)、死にませんから」という言葉からもわかるように、私は初めからとっととその病院を退院して、しなければならない仕事をするつもりでおりました。そういった「患者の意識の持ち方」というものが、その後の回復などに非常に大きく影響するのではないかと思います。

(当時お見舞いに来て下さった知り合いの皆様が私を見た途端にわなわなと震えながら泣く、というのは、私の外見が「顔がパンパンに腫れ上がり、全身管だらけで両手をベットに縛り付けられ、気道に入っているチューブのため口がきけない状態」、とあまりにも衝撃的で悲惨なものだった(らしい)からなのでしょうが、自分には見えませんでしたから(鏡がなかったもので)「自覚ゼロ」でございます。)

それでも入院中、気道確保のためのチューブを抜管した日の夜、真面目にこれは死ぬかもしれないと思って一応「お世話になった皆様へ」というお礼のメモを書いた(入院中はA4の紙67ページ!に亘る「筆談」を行っておりましたので、常に紙とペンが手元にあったため)こともございましたが、今となっては良い思い出でございます。

以前「どうしても母を助けることが出来なかった」という話をしていた時に「消防署の救助を待つことが出来たかも」というご意見をいただいたこともございましたが、うちの火災の場合は火のまわりが異様に速く、最速で呼んだ消防車が到着した時は既に母と私のいた部屋が紅蓮の炎に包まれて部屋中真っ赤な火の海でした。ということは、消防署の救助で母を助けることは不可能だったということになり、耳や呼吸器官などに大火傷を負いながらも私が2階の窓から飛び下りていなければ、私も絶対に助からなかったということになります。(ちなみに母の死因は「一酸化炭素中毒」であり、焼死ではありません。)

(母は煙が2階の部屋に入ってきてから数十秒で、いくら声をかけても反応が無くなりました。仮に、煙で何も見えない部屋のどこに母がいるかを見つけ出すのに成功し、窓際まで母を引きずって来ることがもし出来たとしても、76歳骨粗鬆症の脊椎圧迫骨折を患う母が、しかも意識がない状態で2階の窓から落ちて助かる見込みはほぼないという状況でした。)

もう一つ、火のまわりがあまりにも速すぎたため火災現場にて「恐怖」を感じている暇がなかったお蔭で(全ては119番に電話中、秒単位で進みました)、「PTSD (=Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)」は驚くほど少なかったと思います。正直今になっても火災について考えることもございますが、今回の火災によるトラウマより、その数ヶ月後に起った様々な事柄によるトラウマ(=心的外傷)の方がはるかに大きいのが非常に不思議です。

当然すぎてまだ書いていないことですが、火災当時や入院中に駆けつけて下さった消防・警察の方々、そして病院スタッフの皆様の迅速かつ適切な対応をいただいたからこそ、私は現在まだ生きているのであり、私の命の恩人である皆様には、心より深く、感謝申し上げます。お蔭様で、残された者がしなければならない「後片付け」を行うことが出来ました。

そして身一つで脱出・入院して当面「無一文」になった私を、火災で亡くなった両親に代わって支えて下さった皆様も、私の命の恩人です。本当にどうもありがとうございました。お忙しい中わざわざ病院にお見舞いに来て下さった皆様も、どうもありがとうございました。そして退院後3ヶ月間に亘り、私が最も必要としていた環境をお与え下さった恩人にも、心より深く重ねてお礼申し上げます。

家の中の焼け方が悲惨だった割には外見はとてもそのようには見えなかった家が、俗に言う一般的な「火事場泥棒」の被害に会わずに済んだことも、パトロールをして下さった皆様のお蔭です。(恐らく中をのぞき込んだ方もおられたことと思いますが、窓から見える光景があまりにも凄惨だったため入る気がしなかったのでしょう。)わずかに焼け残ったものは他の方にはただのがらくたでも、家が全焼し、両親をはじめ全てを一瞬にして失った私にとっては、焼け跡から搬出したもの全てがかけがえのない「両親のかたみ」として、本当に大切なものでした。実際に、ペン1本でもそれが母のものだと思いながら使うだけで、とても幸せな気持ちになります。父の部屋から運び出したものも大活躍しています。3ヶ月間命を削りながら本当に悲惨な作業で搬出した煤だらけだったものはどれも皆、私の特別な、大切な、愛する最高の両親の思いがまだその中に生きているかのような、かけがえのない宝物です。

ところで昨年入院中、本当に本当に申し訳なかったのは、同室の患者の方々に対してです。集中治療室にて気道確保の管を抜いた後もそうでしたが、その後救命救急病棟に移動してからも私は四六時中ひどくむせまくっており(よくあれで肋骨が折れなかったものです!)、さらに夜中じゅう不随意運動で勝手に暴れてベットにぶつかり、それはそれは「うるさい患者」として大変なご迷惑をおかけしてしまいました。当時はまだ声帯が塞がらずに声が全く出なかったのでお詫びも言えず、本当に、大変申し訳ございませんでした。

「驚異的な回復」に関して言えば、これは人によって異なることですのであくまで私の場合は、という意味ですが、「安静かリハビリか」という時に私は積極的にリハビリを選んだのが、私にとっては成功だったのだと思います。(もちろん具合が悪くて動かない方がよいと判断した場合は休養をとります。)入院中もリハビリの時間が最高に幸せでした。リハビリ担当のK様には本当に感謝致しております。

積極的なリハビリでは例えば退院後、夏に道路の真ん中で突然歩けなくなったこともありました。その時は酸欠のためではなく、脚の筋肉の硬直による歩行障害でしたが、その時どうしたかと申しますと、前に向かって進めなくなったので、「後ろ向きに」歩いて帰ったのでございます。(危ないので真似しないで下さい。これは公式ブログでもご紹介しました通り、私が普段から「後ろ歩き」を行っていたからです。そういう場合、どう考えても普通はタクシーに乗るのでしょうが、ここは貧乏人の意地で、30分以上かかってでもどうしても自分の足で帰りたかったのでございます。)焼けた実家の家周りや中の片付け等も実に危険な作業でしたが、「忍者リハビリ」と呼んでひたすら行いました。

このように、無謀で申し訳ございませんがとにかく身体を積極的に動かすことによって、私は「動ける身体」を再び一から作り上げて参りました。これは私が入院中初めて立とうとして一秒たりとも立てなかった時、すぐに実行して成功したことでした。(=歩行補助器具に捕まらせてもらって、立てなくて脚が動かせなくても「歩けない」とあきらめずに無理矢理歩いたのです。その時はただ、「何が何でも歩けるようになって全ての後片付けを一人で行わなければならない」という一心でした。その結果、寝たきりにならずに徐々に歩けるようになりました。)

実際には「立てなかった」どころか、集中治療室にいた時の最初のリハビリが確か「ベッドの縁に支えなしで座る」だったような気がしますが、私はふらついて座っていることさえ出来ずに、病院の方が身体を抱えて下さらなければひっくり返っておりました。一酸化炭素による脳の破壊で平衡感覚が機能しなければ座ることさえ出来ないということに気がついたのは、それから随分と後のことでした。(軽度の「相貌失認」は今回の火災によるものではなく、ずっと以前からのことです。)

これは初めて書くことですが、自分の身体のことに限って言えば、入院中最も精神的ストレスが大きかったのは「嗅覚の異常」でした。気管からの抜管後、かなりいきなり点滴による栄養補給から食事に変更になったのですが、その時食べ物の「においと味」が、火災前と全く異なって感じたのには、正直、非常に大きな精神的ストレスを受けました。これは鼻や喉の粘膜に大火傷を負ったので仕方がなかったのかもしれませんが、特に柑橘系の果物がどれも柑橘系の香りではなく、病室にあった食器用洗剤の臭いと全く同じに感じてしまい、まるで「洗剤の塊」を食べているようでした。また、病院内を車椅子で移動する際も、どこもかしこも耐え難い悪臭を感じてしまい強い吐き気に悩まされて大変でしたが、それは、「自分の鼻の中が焼けただれた臭い」だったのだと後で気が付きました。この嗅覚・味覚異常は鼻粘膜の火傷が治っていくにつれて改善され、現在ではほぼ完全に元に戻っております。

火災の時に額に不思議な形の、頭蓋骨に達していたであろうと思われるような深くえぐれた火傷を負ったのですが、そちらもよく見ないとわからない程まで平らになりました。また、3か月間の実家での遺品整理作業によって、手を怪我から守るための特殊なゴム手袋を2枚重ねて使っていたため手の皮膚がおろし金のようにザリザりに荒れてしまったのも、思いの他時間がかかりましたがその後のケアでほぼ元の皮膚の状態に戻りました。

ただ、今年の1月から「暖房なしでの生活」(酸素吸入代のための節約です)だったせいか、もしくは防寒対策も空しく外気が冷たすぎたせいか、手が左右ともかなりの凍傷になって赤く腫れ上がってしまいました。こればかりは流石、久々に体験する北海道の冬の厳しさだと感心致しましたが、この雪国の冬も、お蔭様でなんとか生き延びることが出来ました。

独自に続けてきたリハビリの成果は出ていると感じておりまして、筋肉量は火災前と同じ状態かそれ以上に回復したのではないかと思います。ただ火災の時に私の身体に入って結びついてしまった一酸化炭素により、一生完全には火災前の身体の状態に戻ることはなく、火災によって起きた様々な症状とは長く付き合って行かなければならないようです。確かにほんの数十秒間の一酸化炭素暴露で亡くなった母のいたその部屋で、母の反応が無くなった後もまだしばらくの間、煙で見えず居場所のわからない母に向かって必死に声をかけていたのですから、私が死ななかった方が不思議で後遺症は無理もないことかもしれません。呼吸器も、肺の奥まであれだけの大火傷を負った後であれば、治ることのない酸欠も含めて、しばらくの間は少しの運動で息切れなどは当然かと考えられます。眼球にも火傷を負ったせいか日光が以前よりもまぶしくて仕方がなくなりましたが、失明しなかったことに感謝です。

(一酸化炭素中毒ではない方にとってはなんともない空間でも、例えば換気せずにストーヴがついているところにいた後私だけが中毒状態に陥って猛烈な頭痛と吐き気に襲われたり、倒れそうになったことなどもありましたが、改めて一酸化炭素というのは「その時は気がつかない、気がついた時には遅い」という恐ろしさを、そして同じ空間にいても一酸化炭素中毒患者は、そうでない方には問題無いほど少量の一酸化炭素でも中毒症状が出るという実態を、思い知らされております。)

もしかすると、実際のところは、あの火災で私の身体の一部であったヴァイオリンも灰となって消え去った(2台目は炭となってバラバラに埋もれていた)ので、本当に最後まで家族3人仲良く手を取り合って別の世界へと旅立ったのかもしれません。

それでも私はまだこの地上におりますので、残りの人生を、現在の私に出来ること、行うべきことを、精一杯、誠意を持って行って参りたいと思っております。

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2017年母の日
光湖の手作りプレゼント
龍子はゼリーやプリン
が大好物だった
2017年父の日
光湖の手作りプレゼント
一雄は果物やパンケーキ
が大好物だった
火災の2日前撮影
家族最後の花束
これらの写真は3枚とも
父が写したもの


火災前の伊藤家は、恐らく絵に描いたような家族愛と笑いに満ちた、平和で幸せな家庭だったと思います。その全てを一瞬にして奪った今回の火災、結局はなぜマッサージチェアから自動発火が起きたのかの原因がわからないまま終わりましたが(古い電化製品が突然自動発火することはあるそうです;参照)、皆様の温かいご支援のお蔭で、なんとかここまで来ることが出来ましたことを、改めて心より深く、感謝申し上げます。お世話になりました全ての皆様、本当に、どうもありがとうございました。


伊藤光湖


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