■ 新年のご挨拶と「神様からのご褒美」(2018年元旦) ■


年が明けました。皆様いかがお過ごしでしょうか? 昨年は大変お世話になりました。今年もどうぞよろしくお願い致します。

以前「自転車」という記事 にも書きましたが、ある事柄について「どう感じるか・どう反応するか」は、 自分で選ぶことが出来ます。私達家族は昨年、マッサージチェアからの自動発火による火災で家やヴァイオリンが全焼・両親が亡くなるという大変大きな災難に遭いました。その事実を変えることは出来なくても、「それに対してどう反応するか」は、あくまで私の選択なのでございます。

今回の火災を通して、もしそうなっていなければ決して通ることのなかった であろうところを通ることによって、実に様々なことを学ぶことが出来ました。 従って、私は「全てに感謝」致しております。


□「好きなもの」というのは、私の場合、いくつになってもほとんど 変わっておりません。小さかった頃に好きだったものは今でも好きであり、 それは例えば景色であっても、食べ物であっても、物であっても、そして 物質的ではない事・ものであっても、ほぼ同じです。

「苦手なもの」も同じようです。例えば小学生だった頃「グラマラスで 色っぽい女性」というのが大の苦手で、「あーは絶対になりたくない」と 思っていたら、本当になりませんでした。(京都芸大にいた頃何の曲を弾くのにそう言ったのかは覚えておりませんが「私これからカルメンみたいになるねん」と言うと、ピアノを弾いてくれていたお友達が大真面目な顔で「光湖さん・・ 無理ちゃう?」と言ったのが印象に残っております。)

物心ついてから私が異常なほど愛して止まなかったもの、それは 「犬の◯◯◯◯」と「薔薇の◯◯◯◯」です。この「◯◯◯◯」という 言い方は普通に使われている日本語ではないので、「幼児語?」か「方言」 かと思いますが、書くと何だかわかってしまいそうで、伏せておきます。とにかくそれらが無いと寝られなかったので、家族はなかなか洗濯も 出来なかったほどです。

そんな私の熱愛ぶりをよく知っていた母は、その「◯◯◯◯」を人から いただくと、私のために大切にとっておいてくれました。それらは札幌に 引っ越した後は3階の「重要な物置き場」に保管してありました。その部屋は 両親の空間であり、各自の作品を保管してあったのは知っておりましたが、それ 以外のものについては火災数ヶ月後までよく知りませんでした。(幻の「両親の結婚式アルバム」もこの3階で発見致しました。)

2017年6月30日に札幌の実家が全焼し、両親は同時に亡くなり、私は 2階の窓から身一つで飛び下りて生き残った、という事件の後、退院して 家の片付けを一人で行いました。始めは家の周りに放り出された遺品整理を、 そしてある日梯子で2階の窓から侵入するのに成功し、1階の父の部屋の窓を 中から開けることによってその窓からの出入りが可能になってからは、家の 中の整理を並行して行いました。

「我が家の火災保険事情」に関する手がかりが全く無かった中、主に保険などに関する重要書類を探すのが大きな目的であったため、当初は父と母の部屋を何ヶ月もかかって重点的に調べました。その中で、父の部屋からは焼け残った文房具やひもなどが、母の部屋からはビニール袋やポケットティッシュなどが出てきた(衣服は濡れた上に高温多湿だったため、焦げ・煤・カビなどで全滅でした)ので、リビング・キッチンなどからもそれら煤だらけの遺品を大切に持ち帰ると いう作業を約2ヶ月半程続けた後で初めて、私は3階での作業を始めました。

1階と2階をつなぐ階段ほどではありませんが、やはり3階への階段も非常に 状態が悪く、というよりもともと非常に急勾配で、危ないので手すりがついておりましたがそれらも焼け落ちてなくなっており、足を乗せる部分は壁から剥がれ落ちたものなどが散乱、おまけに3階には「窓がなかった」ので大変暗く、そこに行くだけでも非常に困難な作業でした。一度実際に階段から落ちそうになったこともありました。(猿も木から落ちる)

そんな3階では基本的に懐中電灯の光だけが頼りです。(一カ所消防の方が開けたらしき穴がありましたので、そこから空気は入ってきておりました。)10月末頃になるとその穴から入ってくる風は妙に冷たく、ガタガタ震えながら暗闇の中、奇跡的に焼け残った父の作品(木版画作品)を発見、さらに母の作品の陰に 隠れて見えなかったいくつかの「◯◯◯◯」を発見致しました。

その瞬間、「これは神様からのご褒美だ! これは龍子が大事すぎて使えず、かつ「◯◯◯◯」を愛する娘のためにずっと3階に大切に大切に保管してくれていたものを、神様が奇跡的に焼け残して下さったのだ。私が続けてきたこのあまりにも悲惨な作業に対する、神様からのご褒美だ!」と思って、私は心の底から感謝致しました。

ところで10月半ば頃、お世話になった方からお食事に呼んでいただき、「今何をしているのか?」とのご質問に「3階の遺品整理」と答えたところ、驚きと共に「まだやってるんですか?!」とのことでした。(全て一人での作業だったため、膨大な時間がかかったのです。)そしてその3階から奇跡的に高級ブランド「◯◯◯◯」が出てきた、とお話しした結果「うちに寄付して下さい」とおっしゃるので、家が全焼し全てを失った者がどれほど悲惨な作業を何ヶ月間も続けてきたかをよくご存じな方からの言葉だったため非常に驚きましたが、お世話になった者として断る権利など微塵も無い私は、寄付をさせていただくことになりました。

窓がない3階からの物の搬出は、非常に大きな困難を極めました。ただ上り下りするだけでも大きな危険が伴う階段を、大きな物を持って移動するというのはかなり無謀な作業で、しかも2階からは階段が焼け落ちているので大きな物を持った状態で下りることが出来ず、一体どうやって作品や「◯◯◯◯」を3階から搬出するか、には大変苦労致しました。結局は一旦2階まで下ろしたものを、焼け落ちた窓から身を乗り出して、ロープで下につり下ろす、という方法で怪我もせずになんとか40リットル3袋分の「◯◯◯◯」搬出に成功したことも、本当に感謝でした。

実家から搬出したもののほとんどは新しく引っ越した先のリビングの床に並べて、ひたすら煤の掃除を行っておりましたが、「両親の作品」と「◯◯◯◯」の入った40リットル3袋だけは、特別な一室に保管しておりました。リビングを占める煤だらけのポケットティッシュや文房具の掃除に追われていたため、実は「◯◯◯◯」40リットル3袋分の内容については、あの真っ暗な実家の3階で懐中電灯の光で辛うじて確認しただけで、まだこちらに来てからは一度も見ておりませんでした。ただ煤だらけの3階で震えながらなるべく手袋の煤がつかないようにして、夢中で40リットルの黄色い袋(つり下ろすための取っ手がついていたのはその袋だけだったので)に入れるのが精一杯で、搬出後それらには一度も手をつけておりませんでした。

寄付することになった「◯◯◯◯」を新しい引っ越し先まで選びにきていただいた結果、ご自分の気に入らない「◯◯◯◯」2◯ほどだけが、私の手元に残りました。ただ搬出した40リットル3袋には「◯◯◯◯」ではないものも若干含まれており、それらも4◯ほど残して行かれました。(なぜかその方は後日、1◯の「◯◯◯◯」をお返し下さいました。)こうして最後に私に残されたもの、これらが本当に、母が私のために大事に大事にとっておいてくれた、私への『神様からのご褒美』として、心より有り難く、大切に大切に、使わせていただいております。

同じ遺品でも、母が「”私のために”大切に蓄えてくれたもの、残してくれたもの」というのは、たまたま焼け残ったポケットティッシュなどと違って、私にとっては特別な意味を持っております。現在、この真冬の厳寒の北海道で周りを雪に囲まれながら、これらの「神様からのご褒美」を使っていると、突然亡くなった母の温かさに包まれているようで、本当に幸せです。

火災のほんの数週間前に、母のマッサージをしながら「お母様は最高のお母様だね」と言った時、母は自分で「最低の母親だ」と言っておりました。「なんにもしてあげてなくて」とのことでしたが、こんなにも温かく、私のために、大好きな「◯◯◯◯」をはじめたくさんのものを残してくれました。いえ、ものではなく、何より誰よりもまず私を心から深く愛し、支えてくれた母はやはり私にとって「最高の母親」でした。それは父も同じでした。そんな「最高の両親」に、そしてその最高の両親の元に生まれさせて下さった神様に、心より感謝致しております。


伊藤光湖

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